AMU JOURNAL

寄稿文

2.島にある一文字の地名

2021.4.29

書いた人 ― 木割 大雄

日本の最南端の地に立ったことがある。
沖縄県の波照間島の南端の岬だ。
無人島ではなく、人が住んでいる島としては日本の最南端になる。不思議な気分になった。
俺はいま、一番南に居るのだ!と。
その日に知り合ったばかりの島の人に案内してもらった。
用事があって島に渡ったのではない。
行きたいところや、見たいモノがあって、そこへ向かったのでもない。ぶらりと訪ねたところ。
沖縄へ行きたい。つき合ってくれ、と言う友人が居て、へ?沖縄の何処へ?と聞くと、何処でもいい、という男だった。
ならば、行ったことのない石垣島へ行こう、と旅に出た。目的もない。
予備知識もなく、空港からタクシーに乗った。
あんまり人が行かないところへ連れて行ってくれ、と。初めての石垣島だ。
その日の夕方になってから、沖縄本島の友人に電話した。どこか飲むところを教えてくれ、と。
そんな旅をした。

石垣島からは、最西端の与那国島と最南端の波照間島のどちらかへ行くことができる。天気が良ければ台湾が見えるという与那国島へ行こうと、話し合ったが、飛行機が満席だった。
ならば波照間へ。そんな気楽な旅だ。空っぽの旅をした。20年以上前のことだ。
旅は、空っぽがいい。
そして、端っコがいい。
何より、その土地の名前が胸に響く。
波照間。ハテルマ。果てる島、か、と思わせるではないか。太平洋に浮かぶ。そこが日本の最南端だった。

私の生まれ育ちは大阪湾。島は、淡路島しか知らずに育った。
年を食って、心を空っぽにすることの出来るようになってからの旅はイイ!特に、海は、イイ。

いつの日からか、日本海の島を訪ねるようになった。島の人の心を知るようになった。
知ると言うのはオコガマシイ。心を寄せるようになった、と言うべきだろう。

佐渡ヶ島に行ったとき、能舞台の多いのに驚いた。失礼ながら金山のコトしか頭になかったので。
というより私の勉強不足。世阿弥のことなど全く知らなかった。

  かまつかや佐渡へ遠流の世阿弥ふと  赤尾兜子

佐渡は、単なる団体旅行。人のあとをついて歩いた。観光、という奴だった。
けれどけれど、胸を打つことがたったひとつ。
願、「ねがい」という地名が海辺にあったのだ。
水子の霊を供養するところだった。
もう30年も前のことだ。

隠岐の島を初めて訪ねたのは平成15年。
それから20回以上も遊びに来ている。
友人知人が増えつづけている。
隠岐へ配流された後鳥羽院のことは、村上家四十八代の助九郎さんにいろいろ教わった。

  友に逢う心地や秋の後鳥羽院   宇多喜代子

馴染みの民宿では、まるで親戚のように甘えることが出来るようになった。
若い友人、知人たちとは飲み明かせるようになった。
そして教えて貰ったのが中ノ島の南端の「崎」というところ。後鳥羽院が日本海を渡りきって到着したところ、だという。

山口県仙崎。
カマボコで有名なところだ。
そして、知る人ぞ知る童謡詩人・金子みすゞの生誕地。

  はるか来し波耀えりみすゞの忌   寺井谷子

その仙崎湾の目の前にカッコイイ青海島がある。おおみじま、と読む。読み方だけは、むかし学校で教えられたところ。
今は橋でつながっているが、それまでは船で渡ったという小さい島だ。
その島に「通」(かよい)というところがある。
仙崎から毎日のように漁師さんたちが通ってきたので、その名がついた、という。

そして沖縄県。
沖縄本島の北端の海が、鹿児島県との県境になる。
沖縄の本土復帰は、昭和47年。それより前の昭和28年に、鹿児島県の奄美諸島までが本土に返還された。
沖縄本島の北端の辺土岬(へどみさき)からは、返還されて鹿児島県に戻った与論島が見える。
目の前の島まで返還されたのに、ここに立つ場所は、まだアメリカに占領されいる!という嘆きの岬だ。

  冬海の遠き国にて祖国なり  玉城一香

そのことを教えられて私が訪ねたとき、岬は雨だった。雨にけぶる県境の海を私は見てきた。
その、沖縄本島の北端あたりに「奥」という地名が残っている。

もう一度書く。日本海。黒潮の流れの中なる島々。そして、私が訪ねた四ツの島に残っている地名。
佐渡ヶ島の「願」ねがい。
隠岐の島の「崎」さき。
青海島の「通」かよい。
沖縄本島の「奥」おく。
この四つの、たった一文字の地名。なんだか哀しいではないか。
私が旅で、物想いに沈んでしまう地名だ。

書いた人

木割 大雄

兵庫県出身。俳人。赤尾兜子に師事。兜子没(昭和56年)後は師の人と作品について語り継ぐこと、同時に“俳句とは?”を今も考え続けている。

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