AMU JOURNAL

はたらく人の声

私がAMU WORKERになった理由〜大森編〜

2021.4.15

書いた人 ― 大森 玄己

これまで

太田 今までどんなことをされてきましたか?

大森 大学を卒業してからは東京の海運会社で働いていました。3年半主に人事として仕事をしながら、半年間だけNPOの活動に参加していた時期もありました。それを経て色々と考え、次の道に進もうと思いここに来ました。

太田 そうだったんだね。人事ではどんな仕事をしていたの?

大森 主に採用担当をしていました。初期配属から人事だったので、学生側の目線がわかる一方、会社の人間として何をどんな風に学生に伝えれば良いんだろう、ということに最初は悩んでいましたね。

太田 学生と社会人の間、というか揺らぎだ。

大森 揺らいでましたね。でもやっていく中で、一人の人間として学生と向き合っても良いんだな、と思う瞬間もあって。初めは自分でいっぱいいっぱいだったのが、学生に向き合えるようになり、今度は自分が所属してる会社にどんなことを返していけるかなって思った時に、どんどんこう、自分の中でできないとかやっちゃいけないって思っていた縛りを解いていくことができた。もちろんそれは周りの方々がそれを許してくれたり話をたくさん聞いてくれたりっていう環境があってこそでしたが、そういう風にして段々と視座が高まっていったのかな、と思っています。

太田 積み重ね方のコツを掴んだのかもしれないですね。海士町複業協同組合の仕事も、輪を重ねるごとに面白くなっていく仕事だと僕は捉えてるんだけど、でも最初はやっぱり悩みながら、それからどんどん楽しくなっていくのかなって思います。ところで、今回は夫婦で移住ということだけど、何か決め手になったことはある?

大森 そうですね。結婚して、次の世代について考えるようになったことが大きいです。これから子どもたちが生まれてくる世界は、きっと今までの常識が通用しない世界になる。だから、まずは二人の人生の経験値を増やしたいな、と。また、海運会社にいたこともあり、日々当たり前に手に入るエネルギーや食べ物は、実は船が止まってしまえば届かなくなる危うさも孕んでいるな、と感じていて。だからこそ重要な仕事だとは今でも思っていますが、都会の暮らしにあるものがない、また逆に都会の暮らしにないものがあり、自分たちに欠けている力を身に付けられそうなところに行きたいと思いました。そうして、島、ある意味では不便であったり都会的な快適さからはかけ離れていると思われているような、そういった場所に興味を持ったんです。

太田 素敵だ。その中で特に海士町が良かったところはある?

大森 そうですね。二人で来島した際に、ここの自然や人、何より「ないものはない」という精神に惹かれました。海士町は2050年頃の日本の人口構成を先取りしていると言われていますし、私たちが暮らしていた東京とは環境もコミュニティのあり方もまったく違う。ここでなら、子どもたちが出会うであろう世界をまず自分たちが体験できるし、もっと言えば、ありたい世界を自分たちで形作りながら暮らせるんじゃないかと思いました。結果的に、妻はリモートワーカーとして、私はマルチワーカーとして、それぞれ新しい働き方に挑戦してみようということになりました。

太田 いい、いいなぁ。ちなみにこれから楽しみなことってどんなことがありますか?よく会話の中で「今が幸せ」って言うし、それはすごくわかるし、その気持ちは僕もそうなんですけど…。ちょっと聞かせて欲しいです。

日々を彩りながら暮らしたい

大森 そうですね、暮らしを彩っていきたいです。なんか、人間が暇な状態に退屈するようになったのって、定住するようになってかららしいんですね。かなりざっくりですが、そういうことを言っている方がいるんです。それまでは日々何が起きるかわからないっていう状況に備えるために脳や体の機能を発達させてきたんだけど、定住して、計画的に毎日同じことを繰り返さなくてはならない状況に人間が苦しみ始めたという。振り返ってみれば自分も、何もかも当たり前に用意されている都会の環境に苦しんでいたんじゃないかって思うところがあって。

太田 うんうん。

大森 で、その方が言うには、閾値を超えてちゃんと”浪費”できていないから、飽くことなく”消費”し続けてしまうんじゃないか、と。つまり、自分の感性を十全に満たせていないから退屈するんじゃないか、と思ったんです。何もない暇な状態でも、自分を満たす方法を知っていれば、退屈しないで過ごすことはできるんじゃないか、と。だから、むやみにいろんなものを買い集めたり、無理矢理に予定を詰め込んで忙しくしたりするのではなく、自分の中で何が大事で大事じゃないのか、そういうことをしっかりと感じ取りながら、自分の生活を自分の感性で彩っていきたいなって。

太田 豊かな感受性なんだね。自分の中の声を良いと思えることって、ある程度の諦観力がないとできないことだよね。

大森 そうですね。目に見える変化として、海士町で暮らすようになってからは日々接する家具や家電などをより丁寧に選ぶようになったと思います。お気に入りの椅子に座って夕日を眺めているだけでも、こんなにも心が満たされるんだ、としみじみ感じたり。これからは、日々食べるものを可能な限り自分で調達したり、手間のかかる燻製や陶芸などにも挑戦してみたいな、と思っています。

太田 ますます楽しみですね。そんな中で海士町複業協同組合、どんなところにビビッときたんですか?

大森 「動きながら考えられるところ」。ここにすごく惹かれました。

自分に向き合うことから

大森 とかく、どんな仕事をしてどう生きるのかは早めに決めた方がいい、と半ば脅しのように言われることが多い気がしています。でも自分は、動きながら考えたい。日々感じることが変わっていく中で、一度決めたことを貫き通し続けることがいつもいいとは限らないんじゃないか、と思っていて。会社を辞める時も、履歴書の空白に対しての不安はありましたが、次の進路を決めずに辞めました。それでも支えてくれる家族がいたからこそできたことですが、結果的にこれがすごくよくて。のんびりと自分の時間で本を読んだり人に会ったり、そうした時間があったからこそここに辿り着くことができ、ここでなら自分の全人格を育てられそうだな、と思いました。

太田 自分の全人格、か。

大森 はい。最初に話した通り、会社に行きながらNPOに関わっていた時期があったのですが、その頃は児童福祉の専門職に興味がありました。でもNPOでの活動を経て、専門職を目指すのではなく、まずは自分自身と向き合い、自分の内面性を育てることから始めたいと感じるようになりました。

太田 違う職業を目指していた時期もあったんだね。NPOでは具体的にどんな活動をしていたの?

大森 私が関わっていたNPOは、子どもが子どもらしくいられる世界を目指して様々な活動をしているとても素敵な団体で、半年間だけプロジェクトに参加する形で私も活動に加わらせていただいていました。どんな風に子どもたちに寄り添えるのか、他のメンバーと一緒に考えながら、いろんな背景をもった子どもたちに会いに行く、という活動をしていました。

太田 なるほど。何か活動に参加しようと思ったきっかけはあったの?

大森 そもそも、自分自身不登校で家や学校以外の居場所を見つけられずに苦しんでいた時期があり、その辛さを自分より弱い相手にぶつけて自分を保っていたところがあったと思います。今振り返ってもひどかったな、と思います。でもだからこそ、同じような境遇の子どもたちを支えたいと思い活動を始めました。
ただ、活動を進めるうちに、そもそも自分に自信を持って生きられていないことに気づいてしまったんです。今の自分には、子どもたちに伝えられることなんてないんじゃないか、と。結果的に半年が過ぎた後、児童福祉の道に進むことを諦め、子どもたちに関わる活動も続けられなくなりました。

太田 大きな挫折があったんだね。

大森 はい。一方で、専門職以外の関わり方に魅力も感じ始めていました。そのプロジェクト自体、「地域のいち市民として子どもたちに何ができるのかを考える」ということをテーマにしていて。活動を経て、私自身が、自分の人生をしっかり楽しんでいることが、実は子どもたちに対して一つの選択肢、一つのありたい姿を提示できる可能性を秘めているんじゃないかと思ったんです。それが、家や学校以外の第3、第4の居場所を作るきっかけにもなるんじゃないか、と。そして、まるごとの自分を深められるような組織に行きたいと思った時に、ここに出会いました。

太田 めっちゃ面白い。何者かになるのではなく、自分自身であり続けたいということだね。

大森 その通りです。そのNPOで活動していた時に聞いた、「本当の自立は、依存先がたくさんある状態のこと」という言葉がとても印象に残っていて。考えてみれば、私もこの島に来てから地域の方や職場の方、家族や友人に頼りっぱなしで。悪いなぁ、と思う一方で、自分が安心できる拠点がたくさんできていることにも気づいたんです。

太田 確かに。この島に暮らしていると、本当に日々いろんな方々に支えられていることを感じるね。

大森 マルチワーカーの仕事を通して、まずは海士町中に自分が頼れる人、自分を頼ってくれる人をたくさん作って行きたい。そしていずれは、全国の複業組合や、海外の団体などともノウハウ共有や人材交流をして、お互いに依存しあってかつ自立できる世界を作っていけたらとても面白いんじゃないか、と思っています。
この組合も、職員にとっていつでも帰ってこれる居場所としての“復”業組合になればいいな、と思いますし、そうして私が本当の意味で自立できた時、改めて子どもたちに自信を持って向き合うことができるんじゃないかな、と思っています。


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書いた人

大森 玄己

兵庫県出身。東京の海運会社で3年半ほど主に人事として仕事をしながら、半年間だけNPOの活動に参加していました。

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